昭和47年09月19日 朝の御理解
御理解 第11節
「神は天地の守りじゃから、離れることはできぬぞ。」
私共は、金光大神のお取次を通して、頂いておる神様。それは金光大神のお取次を頂かなくても、やはり天地の親神様の御恩恵に浴しておると言う事は、金光様の信心を頂いていなくても、やはり同じであります。けれどもそこん所を、金光大神のお取次によって、私共は天地金乃神様を知る事が出来た訳です。しかも天地の親神様は、天地の守りじゃからと、自分から仰っておられる様に離れる事は出来んぞと。
金光教の神観の一部と言うてもいいでしょうね。金光教の神様はどんな神様を拝んでおるかと。私達が信心するしないに係らず。それは人間だけではないです。一切のものが、この神様の御恩恵を受けなければ出来んのだ。そこでその御恩恵を分からせて貰い、又は悟らせてもろうて、そこから神様と氏子とが仲良うする信心ぞと仰る様な所から、その神様を頂く事が出来る。交流する事が出来るという訳ですね。
今日は特に、離れる事は出来んぞと仰せられる。だからこれは信心があってもなかっても、信心を止めても信心が薄くても、信心が強くてもやはり同じ事なんですけれどもね。例えば、その神様を神様として愈々頂く。言うならあいよかけよで神様と氏子が、本当に立ち行く所のおかげ。限りないおかげの頂けれる、あり方になる事を、金光教ではあいよかけよとこう言う。そこで人間同志の交わりと言うか交際と言うか。
そういうものでもソロバンを持って交際をする。あの人と付き合うとけば、何かの時に役に立つからとか。あの人と交際をしておれば、何かと便利だからとかと。言うなら計算があって、それがお付き合いしておるとするなら、それは必ず破滅だと思うですね。物やら金やらを超越したもの。そこに信心者が言うところの、精神的基礎とでも言おうか。そういう精神的基礎を作る為にも、私共が無条件でですね。
無条件に神様との間の親密度と言うか、交流する事を願わせて貰うならば、その計算を抜きにした所の信心にならなければならない。所謂打算のない交わりでなからなければならない。そこに初めて本当の気持ちのよいお付き合い。言うならば気持ちのよい結実があるです。これは対人間の場合であってもそうです。それこそ親戚以上に付き合いよると、例えば言うてもです。それをお互いが利用し合うという事だけ、言うならソロバン持ってのお付き合いであったら、本当の結実にならない。
いわゆる真心と真心でのお付き合いであって、初めて本当の結合と申しますかね。そこからよいものが生れてくる。計算ずくでお付き合いをするというのではなくてです。無条件に物とか金とかを超えたもの。そこに精神的な基礎というものが段々築かれて、そこから本当の、これは思いも掛けないよいものが生れてくる。これは人間同志であっても、そのような訳でありますから。これが神様と私共の場合であっても同じ事。神様は離れる事は出来んぞと言うておられてもです。こちらが離しておればです。
よいものは生れません。こちらが信心をいかに熱心にしておると言うても、この神様を頂いてさえおれば、おかげが頂かれるからと。成程おかげも頂きます。けれどもそれではです、本当の結合にならないです。本当の意味に於ての、あいよかけよの働きにならないです。私は今日この事を頂かせてもろうて、おかげで結ばれた信心では、もろいと思うです。それはおかげもやっぱ有難いですから、おかげを受けておる間はよいでしょうけれども。言うなら気持ちのよい結合。
願わんでも頼まんでも生れてくるおかげというものは、打算のない信心。ソロバンを持った信心ではない。それは神様へはどれだけお供えしたっちゃよい。もうお供えしたっちゃ、倍になって返ってくると言った様な事をよく言う人がありますよね。事実は、倍にも三倍でもないでしょうけれどもです。初めからです神様にはどがしこ参ったっちゃ参りゃ参るがたある。お供えすりゃお供えするがたある。これは間違いなくおかげを頂くという様な事だけが、信心であるとするとです。
それはいよいよの時にもろいです。便利で信心をしておる。ですからおかげを超越したもの。私は今日離れる事は出来んと仰せられる。そんならこちらも離れる事は出来ん。離れる事のできない者と、離れる事の出来ない思いを持っておる者とが、一つになって結合する。そこから生れてくるのがこれはおかげである。おかげというのはそういう信心。言うなら真心の信心とか、真の信心と申します事はです。おかげというものを超越した心の状態で、神様へ向こうていく。
昨夜のお月次祭の時に、皆さんに聞いて頂いたように、金光大神を唱えながら、神様の心を、神様の心知りたしと、神様の思いが分かりたいという、一つの情念。言うならば、神様を慕う心を持って、神に向こうていく、神に近づいていくという事。一歩一歩近づいていく。それが信心だと。信心せよ、信心とは、わが心が神に向こうのを信心と言うのじゃという御理解でしたですよね。金光大神を唱えてという事は、金光大神のお取次を頂いてという事である。
そしてその神様の心知りたし、神様の心を分かりたしという念が、愈々憧れの念ともなり、お慕い申し上げる心ともならせてもろうて、一歩一歩近づいて行く所の楽しみ、一歩一歩近づいて行けるところの喜び。そげんして行きゃおかげを頂けるからというものではない。そこから期せずして願わずして生れてくるものがです。今日私が言う神様は離れる事は出来んと仰せられる。こちらも離れる事は出来んという信心。そういう信心はです。人間の交わりに於ても同じ事が言えれるようにです。
それこそ、親戚以上のごたる付き合いと言うようにして、付き合うておってもです。それがソロバンを持ったところの付き合いであるなら、いつかは崩れる。お互いが惜しいもんはないようにして、お付き合いをしておってもです。それが計算ずくでもしそれが付き合いであるとするなら、何かの機会に、必ずそれは崩れる。只お互いが何かものをやる、又ものをもらう。さぁおいしかもんが出来たけんち持って行く。
又片一方からも美味しかもんが出来たからと言うて、持って行くと成程そういうお付き合いは楽しい事は楽しい。だからそれがしてはいけないと言うのじゃないけれども。それがあるからお付き合いをしておると言う様な事では、必ず崩れるというのである。本当の意味での真心と真心との出会いという事にならなければ、本当の意味に於ての結合という事にならない。その結合から生れてくるおかげでなからなければならない。
如何に神様が自分は天地の守りだから、離れる事は出来んと仰せられてもです。それは信心はせんでも、世界中の氏子におかげはやってある。そういう意味に於てのおかげにはそれは知る知らずを、それが分かっておるいないを問わず、受けておるのですけれども。やはり信心をしておかげを受けると言う事は、本当の意味に於て神様との交流それが、信心なのですから。そこから生れてくるおかげ。神様と私共とのお互いが無条件の結合。そこから神様も無条件におかげを下さるという場が展開してくる訳です。
神様だけではなくて、こちらも、離れる事は出来んぞという信心にならなければ、本当の意味に於て、神様をお顕し申し上げるという事は出来ない。神様を顕すという事は、私共が、おかげを受けるという事です。只、願って、頼んで、頂くおかげと意味が違う訳です。本当の結合から生みなされてくるところのおかげ。そういうおかげをもって、神様を顕すと言うことになると思う。成程、神様は天地の守りじゃなぁ。神様は私共から一時も離れなさる事の出来ない神様だなという事も分かる。
その為に私共は段々本当なところが分からせてもろうて。計算の伴わない物やら金やらを、おかげを超越した精神。そういう心がです。その精神的基礎というものが、出来させてもらう。そこから初めてあいよかけよという、働き合いというものが生れてくる。あいよかけよというのは、今日私それを結合と、神様との結合と言う。こちらも無条件ならば、神様も又無条件におかげを下さる。そういう神様が、無条件に下さる程しのおかげを頂いてこそ、初めて神様を顕すという事になると私は思う。
御理解第61節の最後の所に、「金光大神が教えた事を違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても神より上になるとは思うな」と。金光大神が教えた事を一番間違いのない信心。金光大神のお取次を頂いて、分からせて頂いた信心というのは、又はおかげというのはです。私が今日申しました様な事なのです。金光大神の御教えも沢山あります。
けれども今日私が皆さんに聞いて頂いた、人に伝えていくのがと言う事は、どう言う事を伝えるかと言うと。信心があろうがなかろうが、この神様の御守護を受けておるんだという事。だからその御守護を受けておる神様の神恩を感じさせてもらい。その神恩に報謝し奉るところの生活。だからそれは条件はない。そういう中からこのようなおかげを頂いたという信心を、人に伝えていくという事になると、もうこれは一分の間違いもない事を伝えていく事になる。
成程こういう信心を人に伝えていくのであるならば、神になるのぞとおっしゃる事がよう分かってくる。私は合楽にお参りしてから無い命を助けて頂いた。ある時には金銭のお繰り合わせを、このようにして頂いた。兎に角あなたも参ってみなさいと言うて、そういう意味に於てのそれは、人に伝えていくというのはね。成程自分もおかげを頂きゃ、導かれた人もおかげを受けるでしょう。
けれどもそれが神になるという事にはならないと思う。私はここのところをね神様へのお礼。それが神になるのぞとあんまり大変な事を、ここで教えておられます。金光大神が教えられた事を、違わぬように人に伝えていくのが、神様へのお礼であると同時にそれが神になるのぞと仰せられる。そんなら自分の受けたおかげの体験を、人に伝えてお導きをするという事は、沢山言われもする分かりもしますけれども。それだから神になるのじゃない。
神になる程しの、それが神になるのぞと仰せられる、神になる程しの人に伝える。金光大神が教えられた事を、間違いなく伝えるという事はです。今日、皆さんに聞いて頂いたところではないかと、こう思う。信心というのは、おかげというものが目当てではない。いや寧ろ、それは無条件、おかげを超越した心で、神様に向かわせて頂く事によってです。いよいよおかげの本当の受けもの、それを今日は、精神的基礎と、こう申しました。おかげを頂くところの精神的基礎が出来る。
その受けものにです。あいよかけよの働きが生じて、限りないおかげの受けられるおかげの世界に住む事が出来る。そこから本当の気持ちのよい結合、有難い神様との交流がなされてくるようになるのだという事をです。そういう意味合いの事を、それを人に伝えていくという事になったらです。それをまた伝え聞く人が、はぁ成程金光様の信心というのは、有難いという事に、相手を導く事が出来るような信心になれた時に、初めてこれならば神になるに違いないと思うですね。それが神になるのぞと仰せられる。
私共は、痛ければ痛い、痒ければ痒いで、お願いをする。痛いとは治してもらわなきゃならんです。だから、そういうお取次を頂いて、おかげを頂くけれどもです。それがおかげの全てではないという事を、心得ておらなければならん。それは、本当の事は、そういう、おかげを受けるからと言う計算づくのものではない。そこから、本当の心の受けものが出来てくる。成程、ここに至った時に、初めて、神様も、離れる事は出来んと。神様がいつも離れる事が出来ん程しならば、災難やらは起らんじゃろう。
困った事やらは起らんだろうと。と例えばへ理屈を言えば理屈が言えるのですけれども。それだけではいけない。所謂あいよかけよの働きにならにゃいけない。こちらも又離れる事は出来ないという、ひとつの情念と言うか憧念心を燃やして、その神様に一歩一歩金光大神を唱えながら、金光大神のお取次を頂きながら近づいていく。そこから初めて本当の結合が出来交流が出来る。そこから生れてくるおかげ。そういうおかげを、金光教で言うおかげ観と言うならば、そういうおかげをおかげと言うのである。
そういうおかげを頂けれる、その基礎的なものをです。まずおかげを頂き頂き、そのおかげと言うのは、痛ければ痛い、痒ければ痒いで、痒いなら掻いてももらおう、痛いなら擦ってももらおう。様々なお願いもさせて頂きながら、おかげを頂き頂き、本当の意味に於ての、精神的基礎。おかげの受けられる心の状態というものを作らせて頂いて、いよいよ、物とか金とか、おかげと言うことを、超越した交わりが出来るようになった時に、本当の交わりという事になる。
愈々良いものが次から次と、生みなされて来る所の本当の意味で、金光大神がおっしゃるところの、おかげは和賀心にありと仰るおかげが頂けるようになるのです。それを自分が体得して、これを人に伝えていくという事になるならばです。これならば金光大神の言われる事に、一分一厘の違わぬようにとおっしゃる様に、これならば絶対に違わない事であるし。それを伝えていけれる事の信心が出来たら、神になる事の出来るところ迄のおかげというものが、約束されると私は信じます。
今日は特に、離れる事は出来んと教えておられる。これは大体、金光教の信心の神観ですね。金光教では神様をかく観るという事を、この短い言葉で表現しておられます。けれども私は今日は、特に離れる事は出来んぞと言われるところに、非常に心が動いた。そんならこっちも、離れる事は出来ん信心をしなければならないなと思うた。それは有難いおかげを頂くからと言うて、離れる事は出来んごと言よるけれどもです。そのおかげを頂くからだけの離れる事は出来んというのはです、もろい。
何かの調子にそれこそもろくも離れてしまうという。言うなら信心を止めていくという人達が、沢山あるでしょうが。あれ程熱心にしょってという人達が、アッという間に信心を無くしていく人があるでしょうが。それは精神的基礎というものが出来ていないからです。ですからそのおかげも有難い事ながらです。どんな場合であっても離れる事の出来ないという信心こっちも。それには私共が無条件の姿勢をもって。
神様に一歩一歩近づいていくところから生れてくる結合。そこから生れてくる所のおかげの体験というものがです。限りないおかげにつながるのであり、又いよいよあいよかけよの、密なるものが感じ取らせて頂けて。間違いのない狂う事のない、離れる事のないおかげが受けられるという事を、今日は聞いて頂きましたですね。神様は絶対離れる事は出来んと仰せられるのだから、こちらもだから、絶対どんな事があっても、離れる事は出来んという信心を頂かにゃいけん。
それがおかげを受けてお話を頂いて、有難い有難いと言う人は、沢山ありますけれども。そう言う所から、離れられないと言うておる人が、離れていく事実があるではないか。過去合楽の信心を振り返って見てもそうである。それが如何に計算ずくの信心であったかという事を、そこに思うのです。ソロバンを持っての信心ではです。離れんと言いよっても、離れるような結果が生れてくるて必ず。
これは、神様と私共の場合だけではない。人間の場合であってもそうだと。無条件の心と心。真心でのお付き合いであってこそ、そこから生れてくる、良いものでなからなければ、人間対人間の良い結実も、又は結合も出来る事ではありません。この事は絶対間違いのない事。金光大神が教えられた中でもです。これは絶対に違わない事。それを伝えて行ける程しの信心が出来た時にです。成程神になるのぞと仰る意味が、今日は分かったような気がしますですね。
どうぞ。